「青春の歌」と旧制松江高校余話

1.「青春の歌」の作詞者・作曲者について

作詞者は並河太(本名富登志)という人で、松江中学出身です。
明治35年能義郡広瀬町(現安来市)に生まれ、大正10年に松江中学を卒業(41期)し、前年11月に開校した旧制松江高校の第1回入学生となりました。
父親は後に長らく広瀬の町長を務めた人です。
並河太は文武両面に秀でた人物で、文学的才能にも恵まれ、入学したその年、校歌「青春の歌」を作詞しました。その後昭和2年に正式校歌「嵩の麓に」が制定されたので、以後は寄宿舎「自習寮」の寮歌として長く愛唱されました。
理由は分かりませんが、並河は大正12年に松江高校を退学し、早稲田大学専門部に入学しました。
卒業後、昭和4年に山陰新聞社に入社しましたが、この頃から難病に侵され、1年足らずで退社、以後は昭和15年に満37歳で没するまで10年余を、郷里広瀬の病床で文学と関わりながら過ごすという、正岡子規を思わせるような生涯を送りました。

その間、郷里広瀬の歴史を丹念に調べ上げて「月山夜話」を上梓、大毎小学生新聞に「山中鹿之助幸盛」を連載、また歌誌「勾玉」を創刊して、短歌と向き合う日々を過ごしました。遺歌集「八白の寅」があり、図書館で読みましたが、病床での心情を率直に読んだ数々の歌には、心を打たれるものがありました。
また「月山夜話」も郷里広瀬への愛に溢れた筆致の中に尼子一族や山中鹿之助を生き生きと描いています。こちらは国会図書館のデジタルライブラリーで全文を読むことができます。双松の隠れた偉大な文学者を見いだした思いです。
(写真は島根県歴史人物辞典より)

さて、作曲者ですが、これもまた松江中学と大いに関係がある人物なのです。
岩佐万次郎という人で、松江中学の卒業生ではありませんが、近畿双松会の懇親会の最後に全員で歌う松江中学校歌「朝日たださす双松の・・・」で始まる、あの「赤山健児の歌」の作曲者でもあるのです。
なお、「赤山健児の歌」の作詞者は当時の西村房太郎校長(18代)で、この松江中学の校歌ができたのは「青春の歌」ができる2,3年前の大正78年頃のことです。
岩佐万次郎は、当時は母衣小学校訓導でした。当時の松江中学には音楽の教師がいなかったので作曲を岩佐万次郎に依頼したということです。
筆者の高校時代、岩佐文子という社会科の先生がおられましたが、岩佐先生は岩佐万次郎の娘さんです。

「青春の歌」と「赤山健児の歌」は、歌詞にもよるのでしょうが、穏やかな抒情歌と勇ましい行進曲というか、同じ作曲家の曲でも、感じがずいぶん違います。
文子先生の話では、岩佐万次郎は家族に「自分としては赤山健児の歌の方が好きだ」と語っていたそうです。(写真は松江北高等学校百年史より)

2.松江高校誕生秘話

松江高校は全国17番目の官立高等学校として大正9年に創立、翌104月に第1回の入学式が挙行され200名が入学しました。校舎の建設が間に合わず、当初は赤山の松江中学の一部校舎を使用したそうです。
松江高校誕生に先立つ数年前、全国に官立高等農林学校の増設の方針が決まり、島根鳥取両県が激しい誘致合戦を展開しました。その結果、大正7年に鳥取市に設置が決まり、大正10年に、鳥取高等農林学校として開校しました。
直後の高等学校の設置については、島根県が雪辱した形になりました。松江への誘致については岸清一の果たした役割が大きかったと伝えられています。(岸清一伝)

3.入学者の出身府県内訳

旧制高校は全国から生徒が入学したと言われています。松江高校でも、著名な卒業生である花森安治(暮しの手帖創刊:第三神戸中)、藤田田(日本マクドナルド創業者:北野中)などは県外中学校からの入学者です。
そこで、実際はどういう内訳だったのか、開校から3年間の入学者について調べてみました。その結果は下記の通りです。

東日本(中部以東)出身    12
西日本(近畿以西)出身    88
全体の中の島根県の割合      24 (年平均47.7名)
島根県の中の松江中学の割合    57% (年平均27.3名)

確かにほとんどの府県からの入学者がいますが、やはり圧倒的に西日本が多く、近畿と中国で全体の79%を占めていました。
開校から10年経過した昭和6年からの3年間もほぼ同じ結果でした。

4.四修生(飛び級)の急増

当時は中学の5年修了を待たず、4年修了で高等学校を受験できる四修という仕組みがありました(制度としての規定は確認できておりません)。勿論、希望すれば無条件に誰でもということではなく、成績優秀等一定の要件があったと思います。
双松名簿を見ると、各期の卒業生名の末尾に「中途上級学校入学者」の表示があり、氏名が記載されています。これが四修生なのですが、大正10年の松江高校開校までの10年間、四修生は毎年02名という人数で推移していました。
ところが大正11年卒業者のページの末尾には「中途上級学校入学者」が14名に急増しています。本来大正11年に卒業予定だった生徒が4年を修了して1年早く高等学校に進学したというわけです。
この14名のうち11名が松江高校へ進学しています。以後、この年を境にして四修生の数は高水準で推移しています。これをどのように解釈するかは別として、この傾向が松江高校の開校が契機になっていることは間違いないと思います。

5.ほとんどが帝大へ進学

当時の帝国大学の入学定員と高等学校の卒業者数のバランスから、一部の人気大学・学部を除けば、高校卒業者は無条件にどこかの帝国大学に進学できたようです。
高等学校に入学できれば帝大への切符を手に入れたも同然だったようにも思えますが、実は数字の上からは順調に卒業するのは結構ハードルが高かったように推測されます。
家庭の事情などによる中退もあるでしょうが、上級への進級試験もなかなか厳しかったのではないでしょうか。大正10年の松江高校の第1回入学者は200名でしたが、そのうち3年後に最初の卒業生となったのは141名で3割も減っています。

大正13年の松江高校の第1回卒業生の進路を調べてみました。
卒業生は141名(文科69名、理科72名)、そのうち実に129名(91%)が帝大に進学しています。
残りの12名は岡山と長崎の医科大学です。帝大のうち東大が65名で一番多く、次は京大で52名、あと九大11名、東北大1名です。
大学と学部では東大法学部が19名で最多、続いて東大文学部が16名、京大経済学部が15名と続きます。
旧制高校は戦前の各界のエリート育成教育機関だったことがよく分かります。

島根大学のホームページ「青春の歌(旧制松江高等学校寮歌)」のページ
歌詞、楽譜が見られます。https://www.shimane-u.ac.jp/_common/images/01/stories/school_songs/seishun.pdf

YouTube
 唄:緑咲香澄
https://www.youtube.com/watch?v=T2BxuRH6AxA 

その他寮歌祭などのYouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NsIdwLkarWk&t=41s

https://www.youtube.com/watch?v=wVEbYAmNcbk&t=192s

https://www.youtube.com/watch?v=CbCVkYA7_dU&t=1s

https://www.youtube.com/watch?v=arydh1oljeU